★うつ抜け日記009★

★うつ抜け日記009★


うつ状態かどうか


実は、そんなコトはどうでも良かった。


当時、私の意識には、死ぬか仕事を辞めるか、しかなかったから。


なぜ、そういう意識だったのか。人生の終わりを決めて、あと○年で死のうと思ったのはどうしてなのか。


今となっては、ハッキリしない部分が多い。


思い出そうとすると、胸が苦しくなる。


だから、ハッキリさせるのは、中断する。


でも知りたいコトも多いから、他人の事例を見たりする。


心理学なのか、と考えて学んでみたりしたが、ハッキリはしなかった。学びは、まだ途中なので、分かるか、分からないかは別にして、続けてみようと考えている。


2年前、大阪の地震で小学生などが亡くなり、社会的な問題として、危険なブロック塀等の安全点検や除去の必要性が言われた。


危ないものは取り除くべき。私もそう思う。だが、すぐに全てが改善するわけもない。


それまでの部署で、すでに通院していた私は、ただ迷惑をかける使えない人だったのだと思う。


私なりにやろうとしても、上手くいかない。分かってもらえない。


眠れない日が続く。


ほらね、やっぱり私は使えない人間なんだよ。


そう思った。


旦那さんは、ここで私に話す。


私は、私に出来るコトをやればいい。だいたいは出来ているんだから、私なりにやれば、それでいい。


いやいや、それが出来ていないから、私は病院に通っているんだよね。


あと2年で死ぬんだから。


死ぬ、と言ったら、旦那さんが言った。


死ぬのは止めない。仕方ないけど。でも、子どもたちに影響が出るから、離婚してからにして。


あー。そうか。子どもたちに影響が出るのか。

私は、そんなコトにも気づけていなかったのか。


それはいけない。

それはいけないんだ。


何だか、訳の分からない腑に落ち方をした。


職場の面談では、自然体で話したように思う。


はい、私は出来ていないコトが、あれとこれがある。努力はするが、とりあえず、ポストは外して欲しい。


あー、簡単なコトだった。なんだ、そんなコトだったのか。


今、異動して2年目、自分らしく働き、学びながら、社会貢献活動もしている。


不思議だな、と思う。


そして、子どもが二十歳になった。


生きていて良かった。死ななくて良かった。


コロナの影響で、1月から病院には行っていない。でも、市販の漢方で何とかやれている。


やれば出来るじゃない。と、勝手に考えている。


暗い闇の中にいる、そんな気持ちになっている方。


お願いだから、生きていて。


何かのきっかけで、ふとラクに思える可能性はあるかもしれない。


お願いだから、生きていてほしい。

★★うつ抜け日記 番外編002★★

★★うつ抜け日記 番外編002★★


今週水曜日の午後、仕事中に胸が苦しくなりました。


少ししたら良くなるかと思いましたが、苦しさは増していきました。


コピー機の脇で倒れていたら、他の人がビックリするだろうから、ロッカーの影でひたすら耐えていました。


胸と背中、左腕と左肩が締め付けられるようでした。


死ぬ。


そう思いながら、最近検討した保険の減額を思い出しました。


死ぬなら、家族に残せるから、保険の減額はしないようにしようかな、と思ったり。


ああ、湯治宿に泊まるのをやっておけば良かった、と思ったり。


5分くらい経ったでしょうか。


だんだんと締め付けが薄れていました。


あれ、そうか。立ち上がれるかな。そう思い、自席に戻り、しばらく安静にしてみました。


1時間程度で回復し、冗談まじりに同僚に経過を話しました。


「それは病院に行った方がいいよ。俺なんか、昨年、すぐに入院して手術だったよ。」


そうなのか?

そうか。


とりあえず、夕方までやっている循環器科に。


レントゲンと心電図を取り、診察。


先生に症状を話すと、丁寧に狭心症について説明してくれました。


狭心症には、2通りあり、つまるタイプとつぶれるタイプ。


私は、酒タバコをやらないため、ストレス性だろうとのことでした。


ストレスって怖い。こんなところまで!心臓にまで影響があるのね、そう思いながら、エコーの予約を取り、万が一のための薬(発作時に舌の下に入れるらしい)をもらい帰宅しました。


最近、調子が良く、ストレスもないなーと思えていたのに残念ですが、地道に生きていこう、小さな幸せにも気づかせてもらった数日間でした。


私は幸せです。

病気は、悪いことばかりじゃないと思います。

大切なことに気づかせてもらえる貴重な機会かもしれないからです。

★うつ抜け日記008★

★うつ抜け日記008★



出来る人から見たら、私なんてダメだ。

そうで無くても、何も出来ないダメな奴なんだ。


極端な思想、考えに支配されてしまう毎日。

しかし、気持ちが疲れ果てている中でも、多少、穏やかに過ごすことが出来るようになってきたあの頃。


少し良くなっていると考えて、油断したのです。


大阪の地震が起きて、それに関連して毎日が変わってしまいました。冷静さを欠いてしまい、対応しながら、胸が苦しくて汗が止まらなくなりました。なぜか、パソコンの画面がよく見えなくなり、思考回路が切れ切れになってしまったようでした。


新しい上司は、私の心についてあまりご存知ではなかったようです。しばらくしたある日、業務面談で全てを話したのを覚えています。


私が普通なら良かったのだと思いました。私がやれる人なら、上手くいったのだと思いました。


でも、あの時は、きちんと出来なかったのです。気持ちと脳、身体の神経がつながっているようでした。重苦しい気持ちと身体、何ヶ月かは身体を引きずるように仕事場に向かう日々でした。


有難かったのは、やはり主人や家族でした。どうしても調子が悪くなってしまい、過呼吸や頭痛、吐き気に襲われた日は、帰るのも辛く、何度か仕事場に迎えに来てもらいました。


あと2年で、子どもが成人する、そんな年でした。あと2年。何とか頑張ろう、と思いました。でも、たまに、もう無理!と言ってしまう日もありました。胸が苦しくて辛くて涙が止まらないのは、今思えば普通ではなかったのだと思います。


あと少し。

それだけが、希望でした。


家族には、かなり心配をかけたと思います。


この2年くらい前から、高校や部活の友人たちと、距離を置くようになります。二人の幼なじみ以外は、敵にも思えたし、付き合う気力がなかったのです。


いくつも、おかしいと思える事があります。

ですが、当事者の私には、そう思う事が出来ませんでした。


私には、マネジメント業務は出来ないし、資質だってない!こんな状態の私なんか、部下の方が可愛そうだと思いました。


これもおかしい話ですが、本気でそう考えていましたし、これに関しては今もそう思っています。


心が辛い時は、一旦今の職責を離れてみたっていいと思います。離れてみて分かる事もあると思うからです。


今、比較的穏やかな気持ちで仕事に取り組めています。2年前とは、全く違う気持ちです。


業務が変わった事もありますが、この間に義父が亡くなった事も大きいと思います。

死を身近に感じて、闘病生活をする義父を目の当たりにして、自分の死生観も変化したと捉えています。


目の前が暗い時、それは悪い事ばかりではない。そうではない何かにつながって、私たちは生かされているのではないだろうか。そう思う事が多くなりました。


今起こっている大変な嫌な事だと思える事は、もしかしたら、素晴らしい何かにつながっているのかもしれないのです。


何が、何につながっているかなんて、誰にも分からないかもしれません。悪い事が良い事につながっているなんて思えないかもしれません。


でも、諦めないで欲しい。いつか、諦めないで良かったと思える日が来ると思うから。だから、生きていて欲しいです。